インド旅行記、アジア旅行記
ノーラに逢う(4)―――――― プシュカルのこどもたちとの交流

ホテルのテラスで折り鶴を折っている。

全部で二十もあれば足りるだろうと。しかし、ぼくはやっと五羽ほど折りあげる。同宿の、ヨーロッパから来た若い旅行者が不思議そうに見ている。折り紙であることは、知っているらしい。綺麗な鳥ねと、彼女は一つとって眺める。日本の伝統とやら、紙で出来た折り鶴が、大きな彼女の手の中、とても華奢で頼りなく見える。どうにも彼女とその折り鶴がアンバランスに見える。それをそっとテーブルの上に置くと、彼女は部屋に戻っていった。ぼくは、鶴折りに飽き、その内の一つをガネーシャに見立て、少し折り足してペンで顔を描く。それにやっこさんの体を付けて、ガネーシャと言って彼女に見せる。子供が泣き出すと言って、その不気味な顔をしたガネーシャを見て彼女が笑う。宿の婦人がそれを見て又笑う。薄暗い蛍光灯の明かりの下。辺りには虫の声。見上げれば、星たちは、降って落ちてきそうなほど、そぞろ多い。


今日の夕方も、それが当然のよう、ノーラたちは来ていた。さしてする話もない。言葉がほとんど通じない。ホテルの主人には、五月蝿いと怒鳴られる。あっちに行け、もう来るなと怒鳴られる。しかし、彼らは窓の下、今日も来ていた。ぼくが彼らと話をしている間、彼女はベッドの上で鶴を折り、彼らに放る。折り鶴を手に取った子供を真ん中に子供たちの輪が出来た。

「鳥だ。鳥だ。紙の鳥」

子供たちは、その日本から来た初めて目にする紙の鳥を見て、興奮して口々にいう。おれにも鳥をつくってくれ。わたしも鳥がほしい。鳥をつくって。おねえちゃんにも、おかあさんにも妹にも鳥をつくって!
ビスケットもチョコレートも、今この瞬間だけは頭にないらしい。


そういう訳で、だから、日の落ちて静まったホテルのテラスでぼくらは、鳥を折っているのである。

二人合わせて、二十羽ばかりの鶴を折った。

それを持って翌日、彼女は空き地に出かけた。
ぼくは、部屋の窓から空き地を眺めている。


空き地に行こうと思うと、彼女が口にした時、初めぼくは、内心物好きな人だと思った。別に呆れるとか、そう言う悪びれた気持ちは無かった。好奇心の強さ。その元気さに半ば嫉妬していたのかもしれない。そんな感情が裏返しに、物好きという言葉を頭の中に描かせたのかもしれない。

この何日か、日を追うごと、日差しが強くなった。だから、少し歩くと息が切れる。おまけにここプシュカルに来た辺りから、ぼくは腹の調子が悪い。毎日歩いた。距離はたいした距離ではなかった。歩く時間も、少し歩いては休んだのでたいした時間ではない。しかし、参道からホテルに帰ると、ほっとして疲れがでた。疲れて帰った後のノーラたちとの会話。だから、それはこの場所からで充分だと思っていたのかもしれない。

プシュカルにはたくさんの子供たちがいた。こちらからわざわざ出かけて行かなくても、彼らの方から次々と声を掛けてくる。ビスケットを、1ルピーをくれと、そう言って。だから、ノーラたちとの出会いも、そんな子供たちと同じ類の出会いに過ぎないとも思っていた。

おそらく、出会いというものに、特別なものなど一つもなく、その出会いが特別な―次の関係に代わるのは、こちらとあちら、その時のひょんな偶然に過ぎぬのではなかろうか。人はいつもいつも気分爽快であるはずもなく、年がら年中泣きもしないし、絶えず怒っているわけでもない。出会う相手も又しかり。気分の悪い者同士が出会えば、それは喧嘩になることもあるだろうし、悲しい者同士、慰め合うという関係も生まれるかもしれない。人の出会いに倦み、疲れた者同士であれば、きっと、お互い口を利くこともなく、何事もなかったように、人は「出会い」の言葉にも気づくことなくすれ違うのみである。そして、それが人間の関係である以上、一方通行であるはずもなく、どちらかが、どんなに積極果敢であれ、その受け手が聞く耳をもたねばそれで終いなのだ。

今度の旅行で、ぼくは彼女のたくさんの友人を紹介された。
よくこれだけの友達をと、思うほどたくさんの友達を。
そして、彼女がインドに行きたがる訳の一つを理解できたよう思った。
これほどに、彼女を待っている人がいる。

ぼくには、日本に、自分を待つ人が、何人いるだろう。よく来たね、さあさ待ってたよと笑顔で迎えてくれる人が。
それを思うと寂しくなる。

毎日多くの人に会い、一つ二つの言葉を交わし、忙しく回る日々。そこに特別な出会いなどは、一つもない。ただあるのは、細切れの時間。その積み重ね。太陽が沈み又昇ると、真っさらな白い紙に、出会いの文字が書きつづられては消えてゆく。それらはまるで、コピーのトレイに次々と送り出されてくる用紙が、やがてシュレッダーに行き着き、何一つ証拠を残さぬとばかりになって放り出される―あの紙屑を思い起こさせる。まるで、出会いまでもが、消費の一部であるかのように。

そんな消費の国から、またぼくは性懲りも無く又、この不思議の国にやってきた。やってきて、たくさんの出会いに感動し、落胆されられ、考え、笑い、腹を立て、今疲れて、少し倦んでいる。


彼女は空き地に出かけた。
ぼくは、部屋の窓から空き地を眺めている。
確かにここから空き地を見下ろしている様子というのは、どうも現実感に欠ける。赤い四角の窓枠によって、切り取られ、隔離されたる外の景色は、これがテレビ映像だと言われれば、そうなのかも知れないとも思える。この窓から、幾ら身を乗り出して、精一杯手を伸ばしても、空き地にいる子供たちには届かない。せいぜい五十センチ近づくのがおちだろう。テレビのモニタに向かって五十センチ前に出たのとさしてかわらないではないか。
と、そう思うのだが、どうにも億劫なのである。

一人、部屋に残って、だから空き地をぼんやりと眺めている。
暫くして、彼女が遠く、壁の辺り、子供たちに囲まれて道を登っていく、その姿が目に入った。何人かの子供に手を引かれ、笑い、何かを話している。

見ていると、楽しそうで、羨ましくなってきた。
ぼくは、億劫さと、重い腰とを放り投げ、好奇心とビデオカメラを手に、慌てて表に飛び出した。

 

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