| インド旅行記、アジア旅行記
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| ノーラに逢う(4)―――――― プシュカルのこどもたちとの交流
ホテルのテラスで折り鶴を折っている。
全部で二十もあれば足りるだろうと。しかし、ぼくはやっと五羽ほど折りあげる。同宿の、ヨーロッパから来た若い旅行者が不思議そうに見ている。折り紙であることは、知っているらしい。綺麗な鳥ねと、彼女は一つとって眺める。日本の伝統とやら、紙で出来た折り鶴が、大きな彼女の手の中、とても華奢で頼りなく見える。どうにも彼女とその折り鶴がアンバランスに見える。それをそっとテーブルの上に置くと、彼女は部屋に戻っていった。ぼくは、鶴折りに飽き、その内の一つをガネーシャに見立て、少し折り足してペンで顔を描く。それにやっこさんの体を付けて、ガネーシャと言って彼女に見せる。子供が泣き出すと言って、その不気味な顔をしたガネーシャを見て彼女が笑う。宿の婦人がそれを見て又笑う。薄暗い蛍光灯の明かりの下。辺りには虫の声。見上げれば、星たちは、降って落ちてきそうなほど、そぞろ多い。
「鳥だ。鳥だ。紙の鳥」 子供たちは、その日本から来た初めて目にする紙の鳥を見て、興奮して口々にいう。おれにも鳥をつくってくれ。わたしも鳥がほしい。鳥をつくって。おねえちゃんにも、おかあさんにも妹にも鳥をつくって!
二人合わせて、二十羽ばかりの鶴を折った。 それを持って翌日、彼女は空き地に出かけた。
この何日か、日を追うごと、日差しが強くなった。だから、少し歩くと息が切れる。おまけにここプシュカルに来た辺りから、ぼくは腹の調子が悪い。毎日歩いた。距離はたいした距離ではなかった。歩く時間も、少し歩いては休んだのでたいした時間ではない。しかし、参道からホテルに帰ると、ほっとして疲れがでた。疲れて帰った後のノーラたちとの会話。だから、それはこの場所からで充分だと思っていたのかもしれない。 プシュカルにはたくさんの子供たちがいた。こちらからわざわざ出かけて行かなくても、彼らの方から次々と声を掛けてくる。ビスケットを、1ルピーをくれと、そう言って。だから、ノーラたちとの出会いも、そんな子供たちと同じ類の出会いに過ぎないとも思っていた。 おそらく、出会いというものに、特別なものなど一つもなく、その出会いが特別な―次の関係に代わるのは、こちらとあちら、その時のひょんな偶然に過ぎぬのではなかろうか。人はいつもいつも気分爽快であるはずもなく、年がら年中泣きもしないし、絶えず怒っているわけでもない。出会う相手も又しかり。気分の悪い者同士が出会えば、それは喧嘩になることもあるだろうし、悲しい者同士、慰め合うという関係も生まれるかもしれない。人の出会いに倦み、疲れた者同士であれば、きっと、お互い口を利くこともなく、何事もなかったように、人は「出会い」の言葉にも気づくことなくすれ違うのみである。そして、それが人間の関係である以上、一方通行であるはずもなく、どちらかが、どんなに積極果敢であれ、その受け手が聞く耳をもたねばそれで終いなのだ。 今度の旅行で、ぼくは彼女のたくさんの友人を紹介された。 ぼくには、日本に、自分を待つ人が、何人いるだろう。よく来たね、さあさ待ってたよと笑顔で迎えてくれる人が。 毎日多くの人に会い、一つ二つの言葉を交わし、忙しく回る日々。そこに特別な出会いなどは、一つもない。ただあるのは、細切れの時間。その積み重ね。太陽が沈み又昇ると、真っさらな白い紙に、出会いの文字が書きつづられては消えてゆく。それらはまるで、コピーのトレイに次々と送り出されてくる用紙が、やがてシュレッダーに行き着き、何一つ証拠を残さぬとばかりになって放り出される―あの紙屑を思い起こさせる。まるで、出会いまでもが、消費の一部であるかのように。 そんな消費の国から、またぼくは性懲りも無く又、この不思議の国にやってきた。やってきて、たくさんの出会いに感動し、落胆されられ、考え、笑い、腹を立て、今疲れて、少し倦んでいる。
一人、部屋に残って、だから空き地をぼんやりと眺めている。 見ていると、楽しそうで、羨ましくなってきた。
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