インド旅行記、アジア旅行記
ノーラに逢う(3)―――――― プシュカルのこどもたちとの交流

「明日、空き地に行ってみようと思うの」 と、彼女が言った。

夜。日は落ちた。窓の外に目を遣ると、壁の向こう、ぽつんと、彼らの住むだろう家の灯りが見える。明後日、プシュカルを発つ。ノーラたちは、毎日窓の下、夕方になると、声を掛けてきた。ぼくらは、プシュカルの参道の帰り、なにかしら彼らの土産にと、物を買って帰った。

「いいか。みんなで。みんなで必ず分けるんだぞ!」
「わかったわかった。みんなにわけるから」

宙を舞うビスケットの袋、それを掴もうと、空に向けて、小さな手を一杯に広げて声を上げる子供たち。

異邦人という歌をご存じであろうか?
『子供たちが、空に向かい両手を広げ、鳥や雲や、夢までを、掴もうとしている』
しかし、この場所の彼らが両手を一杯に広げ掴もうとしているのは、たった一袋のビスケットに過ぎないのだ。

初めてノーラたちにビスケットをやった日。ノーラは、その袋をキャッチすると、空き地を走って壁の向こうに姿を消した。走っていく途中、一度振り向いて、悪戯っぽく笑うと手を振った。ノーラに続けとばかりに、ビスケットを独り占めにさせてなるものかと、子供たちはワッと走り去った。

翌日、窓の下に苦情を申し立てる子供が来た。
昨日のビスケット。ぼくはもらえなかったと。不公平だと言うのだ。

そうかそうかと、自分の今食べている、チョコレートを挟んだビスケットの袋を覗く。すると未だ五枚ほど残っている。

しかし、そんなことをしている間にも、子供は一人、又一人と増えているではないか。そして、口々に恨み言を言い始める。私も、ぼくも、昨日のビスケットはもらっていない。すると、別の子供が言う。こいつは昨日食った。こいつも。でも、彼女は食ってない。瞬く間に十人ほど集まってしまう。一体あの壁の向こうには何人の子供たちがいるのか、子供たちを次々と送ってよこす不思議な壁を見る。

「五枚しかないから。一枚を半分ずつに分けるんだぞ」
チョコレートを挟んだビスケットが飛ぶ。
そして、又、子供たちは空に向け両手を広げた。


その空き地は、ナチュラルビューの直ぐ裏手にあった。窓を開ければだから、そこがノーラたちとの交流の場だった。しかし、空き地への道のりは、ただ単純にホテルの横を抜けて、という訳にもいかないのである。ホテルの前の道には延々入れそうな路地が無く、一本入れそうな道を見つけるも、又別の民家への入り口だったりする。だから、我々の間には何時も、同じだけ、幾ばくかの空間があった。ぼくらは荷物や物でごちゃごちゃと溢れるホテルの部屋、二階の窓から見下ろすようにして、彼らは何もない空き地から見上げるようにして、話を、そして、ビスケットなどが、重力の法則に従うべく、高みから低みに向けては投げられた。

その光景は確かに、気持ちのよいものではない。
まるで猿山に向かって餌付けをする飼育係のようにも見える。
人に何を与えるにせよ、相手の目の高さに行かなければ、きっと物を与えたことのみで終わってしまう。気持ちまでは伝わらない。

プシュカル湖、参道にいざりの物乞いがいた。肉のすっかりそげ落ちた足を折って、板きれに小さな木の車輪を付けた粗末な台車をガラガラと、手漕ぎ、なにか物言う。その言葉は呪文のようにも、歌のようにも聞こえる。首かに幾重にも首飾りをぶら下げて、ぼろ布一枚を纏い、白髪の髪も髭も伸びるままにまかせ、垢じみた黒い顔に深い皺を刻み付けている。サドゥーのような出で立ち。しかし、頭の上にカラフルな色の小さなパラソルを乗せている。まるでアメリカの西海岸の浜辺に似合いそうなパラソルのミニチュアが、どうにも場違いで、一つだけ浮いた存在で、間違い探しをさせられているようでもある。そのパラソルが妙にコミカルで、微笑ましいのだが、どこか又、そこはかとない侘びしさを放ってもいる。彼の姿は毎日、参道で見かけた。ぼくはポケットを探り、小銭があると喜捨をした。台車の上には缶からがあって、中を覗くと幾らかのコイン。その缶に向けて、手を伸ばすと、彼も両手を、水を掬うような仕草でゆっくりと前に出す。
だから、屈んで彼と同じ高さになる。その手のひらにそっとコインを一つ置く。すり切れたぼろぼろの白い軍手から、黒い指が覗いて見える。彼の顔を見る。にこやかな笑顔にこちらが救われたような思いになる。

「明日、空き地に行ってみようと思うの」
同じ目の高さに ― 猿山の飼育係ではなく ― おそらくそれは、彼らに対する礼儀などという大げさなものではない。こちら側の気持ちの問題なのである。そして、もっと彼らに近づきたい、彼らを知りたいという願いである。

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