お盆を前に京都に出掛けた。
ちょうど五条で陶器の有名な市が開かれていたので足を運ぶことにした。
聞けば、市は夜になって人のにぎわいも最高潮を迎えるのだそうだが、これから夕方になろうというぼくの訪れた時間にも、もはや気の早いたくさんの客がいた。
五条の歩道左右にはびっしりと露店が建ち並んでいた。
そこここに所狭しと並べられた焼き物を眺めながらのろのろと流れる見物客の中、風は凪ぎ蒸し暑いが時折どこか露店の軒先に吊された風鈴の音に涼を感じた。
陶器の露店にはどうやら二種類あるようで、大量生産されたものを市場価格よりも安くという店と自ら焼いた作品をお披露目を兼ねてというものがあった。
特に欲しいものもないので後者の焼き物を中心に見て歩いた。
陳列された物たちは、日常に使われるべき生活用品、例えば湯飲みだったり、茶碗やビアグラス、皿や小鉢といった類がほとんどなのだから、作品とは言え突飛な形であればそれは使いにくいわけで、自然『形』に関してはそうそう風変わりなものはなかった。ただそれぞれが微妙に或いは大胆に歪曲していたり、皿ならば反り具合だったり、そういった処を見るのは面白かった。焼き物の形を面白がれるのはぼくにはせいぜいこの程度で、しかし色となると千差万別、似通った色はあるにしても全く同じと言うことは無いようだった。
ぼくの目を引いた小振りの鉢は深い青と黒のグラデーションで、海の底太陽光の届かない漆黒とその青がまだ残る境のような、水深200メートルの色を思わせた。それを一つ手にとって目前にまじまじと見つめた。深海200メートル色の上には小さな銀の砂がまかれたようで、それは無数の空気の泡が上っていくようすにも見えた。或いはまた別の店で見つけた皿の色。それは深海だの200メートルだのといったまどろっこしい表現などいらないほど簡潔に言い表すことができる色だった。ぼくにはそれが鉄錆そのものに見えた。その皿はまるで皿の顔をしてそこに在るが実はさび付いた丸い鉄板ではないかと思えるほどだった。しかし、形と言えば全く焼き物らしい、優しく柔らかで触れれば温もりを感じるようだった。ぼくは錆というのは美しいものなのだと思った。
「この皿になにを盛ってやろうか」と考えてみた。
しかし、どうにもこの鉄錆はこれ自体を思えば美しいのだが、真っ白な飯を盛ると想像すれば、その瞬間に鉄錆は酷く醜い色に変わってしまった。同じように刺身を盛れば今度はどうやら鮪の赤身が血合いのような黒っぽい赤に変わった。そうやって暫く色々な御馳走をこの皿に盛りつけて見たがどうにも皆食欲を減退させる色に変わってしまった。
しかし、一つだけ見つけることができた。この鉄錆色の皿の上に菜の花のおひたしを盛りつけるようすを想像し、ぼくは、その美しさに満足した。その若々しい黄緑色も鮮やかな黄色もきっとこの鉄錆色に映えるだろうと思うとどこか嬉しくなった。